いま東京でいちばん戦闘的な労働運動を展開しているものとして、東交電車部青年部が注目されていますが、どうして東交電車部青年部が注目されなければならないかというと、一口でいうならば、この青年部は単に戦闘的だということばかりか、むしろ労働者が自分で自分の革命の原則をつかみとっていくことができる労働者としてそだちつつある、こういうことからくるのでなければならぬと思います。 こういう点から考えてみると、労働運動という場合、普通は労働組合運動のことをいっている。そして革命運動、社会主義運動、すなわち労働者階級解放の運動とは別のものと考えて、この労働組合運動に社会主義運動がしだいに外から結合していくようにとられがちのように思う。これはわりあい根の深いもので、労働者が自分でつくりだせるものはせいぜい労働組合運動どまりで、それ以上の革命的・階級的政治性というものは労働者からは発生しえないと、いろいろなかたちでいわれてきて、したがって社会主義運動、労働者階級解放の運動というものと、労働運動といわれてきた労働組合運動とは一応別個のものである、そしてこの二つの運動がだんだん結合していく、ととくに二〇世紀に入っていわれてきたわけです。しかし根本的にいうと、労働運動・労働者運動の内部に、労働組合運動とともに革命運動・社会主義運動すなわち労働者階級解放の闘いが含まれていなければならない、ということが根源的な忘れ去ってはならない点だと思います。「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業」(第一インターナショナル=国際労働者協会規約)であり、小市民やインテリや、それにいわゆる「前衛」さえもこの事業の肩がわりをすることはできないからです。したがって労働者の・労働者階級としての・労働者運動は、労働組合運動、一口にいって賃金と労働時間をめぐってそれを直接的な第一次的な闘いとしてすすめてゆくという労働組合の本来の闘いと同時に、労働者階級解放のための闘争がふくまれていなければならない。つまり労働者運動そのものが「二重」になっている。資本と賃金労働の制度を前提として闘っているが、それにとどまらず同時に運動が生み出す団結を手段としてその前提そのものを変革するためにも闘うというふうにです。しかし現在の労働組合運動は、こういう原則を欠落して、この第一次的な闘争に切りつめて満足しているように思います。例えば、ある程度労働組合の活動家になっても、ただ賃金と労働時間をめぐる闘い、それはそれで賃金制度が続いている限り大切であるし不可欠でもありますが、しかしそれにただ戦闘的に闘う分子としてとどまる。そして自分は労働運動をやっております、と考えがちだと思うのです。しかしこれは労働者運動の総体ではない。賃金労働は労働の歴史的形態であり、永遠に変えられぬものではなくて、労働の資本主義的形態です。だから資本と賃金労働の両極を二つながら廃棄する運動が労働運動のなかにはいっておらなければならない。こういう闘いをすることではじめて、自分は労働運動をやっているという誇りをもてる。 そしてそれからさらに大切な点は、「賃金と労働時間」を直接の課題とし、元来の目的とする労働組合運動と、「階級解放」の革命運動であるべき社会主義運動との労働者運動の二つの構成部分の各々でも、それぞれ、こうした労働者運動の二重性がしっかり把握されなければならぬということです。労働組合運動自身が単なる労働組合運動どまりではダメだと思う。現在では、こんなことでは労働組合の存在理由を問うという情勢がいろいろな形であらわれてきておるし、また自然発生的な活動家にしても、現在の労働組合そのものに疑問を持ちだしてきておる。この疑問がすべて正しいとはいえないが、正しい深刻な問題提起をふくんでいる場合がある。例えば、労働者が首を切られてそれを守れない労働組合があるか! そんな労働組合は存在意義を問う!――ということがくり返しでてきている。また普通の賃金、普通の労働条件さえもかちとれない労働組合すらある。それは例えば三池である。こういう労働組合は資本家からチョッピリの譲歩すらとれないところまできている。が、闘うほかしかたがない。それでも何も得るものはないという状態に追いこまれている労働組合である。これではいわゆる経済闘争しかやらない労働組合はどうするのか、現在その存在理由を問う!――ということが自然発生的にでてきた活動家のなかにもひろがりつつある。こういうことはどういう状態であるかといえば、マルクスの諸文書のなかにも書かれているように、労働組合運動自身の中に「二つの資格」があるのだということです。すなわち一つには賃金制度を前提とした直接的な闘い、これは労働組合の「本来の目的」として、資本主義社会の中では絶対になくならないし大切な意味を持つ。二つには労働者階級を解放する組織的な結集点であるという意義を見出し、資本と賃金労働という両極を二つながら廃棄する方向に闘うあらゆる社会的政治的運動を支持し、その闘士となっていくこと。これは「将来の労働組合運動」にとってはとくに大切であると、そういうことをマルクスははっきりと述べているわけですが、こうしたことが現在くり返し大切である時代にはいっている。現在すでに労働組合運動自身が、とくにこの第二の資格を獲得し育てあげなければならない時代にはいっている。マルクスの「古い予言」は、聖者の神秘的な予言でなくて階級闘争の必然的な論理の洞察ですから、今やそれが的中して、それから逸れるものは事態そのものから罰を受けているわけで、「賃金と労働時間」の問題だけの労働組合の「本来の目的に帰れ!」などというのは現在ではますます反動に転化していくのである。労働組合自身が資本主義そのものの革命的転覆の方向に闘うあらゆる社会的政治的運動を支持し、その行動的闘士となるのでなければ、そのように先に述べた第二の資格を鍛え上げるように労働組合を変革しなければ、逆に労働組合自身の存在理由を問われるところまできていると考えなければならないと思うのです。こうしたことが労働組合側からもいえるわけです。それから社会主義運動といわれている、労働者運動の中にふくまれなければならないもう一つの側面からいっても、現在あれこれの社会主義政党なるものが存在してはおるが、一体社会主義ないし共産主義ないし階級解放のための革命的な闘いを現在的にやっているかと問いつめてみると、「革命はいつかくるもの」と単に将来においてしまっている。現在やることはただブルジョア的改良の闘いだけだと思い、それが日常闘争だという。そして革命的活動というものは将来やるのだとせいぜい頭におぼえておく。そして「現在の問題だ」と問いつめれば、「革命を一揆でやるのか」と開き直られる。そういう理解が現在の労働者党ないしそれを支持する労働者の中にはびこっている。そして労働者党の運動は、社会党・共産党を問わず、労働者ではない・あるいは労働者階級の立場をすてた・労働者ヅラをした官僚に支配されている。こういうなかで労働者階級は階級として自立できない。そういう官僚の尻尾あるいは物理力になって、一体これでいいのかということが、とくに「安保・三池」以後の闘いの中でくり返しでてきておる。労働者党がこれでよいのかというこの課題が問いつめられている時代にはいってきている。 以上のように労働者運動は、単に労働組合運動だけではない。労働者運動の内部に労働組合運動と同時に社会主義・共産主義のための闘争をふくんでおらなければならん。しかもこの二つの側面からくり返しくり返し革命の問題を現在的に問いつめられる時期にはいっておる。
労働者が革命的労働者にならなければならないという以上の点から考えて、労働者が学習をやるということについて姿勢をたださなければならない面があると思います。例えば学習をやるという場合には、おうおうにして学習サークル主義に陥る。いうならば労働者運動が困難に陥ると、しばしば自然発生的に一方の極として、労働者階級の現在の実践的課題を放棄して「マルクス」、「レーニン」、「トロツキー」を読み、今は読む時期であるという。こうして学習サークル主義になり、「マルクス」の言葉は理解するが、実践とは無関係になり「力」にならない学習になる。また一方この裏返しとして素朴な労働者主義。労働者が闘っているから意味がある、理論なんてインテリにまかしておけ、という素朴労働者主義・素朴行動主義がでてくる。 ではこの二つの極が何故無力であるかというと、この二つのことは革命的労働者にとって「分業」でありえないからです。つまり肉体を動かして実際に闘う同じ労働者諸個人が、同時に自分の意識・意志・展望を持ち、それに基づいて活動してはじめて、自分の運動を自分で切り開いてゆく自立した労働者といえるからです。 学習の意義は、労働者階級の一人一人が自分で社会的に支配し政治的に支配していく能力を持った、主体的に自立した人間になっていくということにあります。それまでは、官僚や、インテリとしてのインテリやブルジョア・インテリ、ブルジョア諸党に従属してしまって、労働者が自分で自分の頭脳をもたない。頭は彼らにまかしてしまう。単なる物理力になってしまう。――こういう状態から成長して、知的な教養的なものを「教養ある階級」から奪還して、労働者階級は自分で自分の頭をもち見通しをもつ、そして一切の付属物にならないで自立してゆく、そして最後には労働者階級が政治をし、社会のいろいろな活動を自分で行ない支配し、経営も行なう。一口でいうと、あれこれの頭の中で考えられた労働者階級ではなしに、現実にそこに生きて存在している労働者諸個人の総体としての労働者階級が歴史の主人公になる。運命の奴隷にならない、資本家階級の奴隷にならない。こういうことになってゆくためには学習をせねばならんといいたいのです。学習の意義はそこに根本があると思います。とくに現在各国の社会民主党や共産党が労働者諸個人の主体的で階級的な自立を本心は恐れており、指揮棒にただひざまずいて崇拝するか、少なくともその指揮の範囲を越え出たことを考えさせないようにして、革命性を失っている時、この革命的自立のための学習は特別に大切だと思います。 さらに現在特殊に注意すべきことは、世界的な規模での核戦争の危機におおわれている時代であるということに象徴をみるように、危機が、いわば世界史的な、かつてなく広い深い時代なのだということです。そういうところからこの世界的な危機を解決すべきはずの労働者の学習の極めて大きな意義がでてくる。別な言葉でいうと、マルクスは「労働者党の名誉は、あれこれの誤りを経験によって教え込まれる前にその誤りを拒否して、時間をいわば先取りして、あらゆることを見抜き、失敗におわることがないように現在から配慮してゆくことだ」というようなことをいっている。時間を先取りしてしっかりした展望を持ち、できる限り失敗・誤りをはじめから排除することが必要なのです。このことはとりわけ現在必要なことだと思います。 現在では戦争でもファシズムでも、もう一回そんな事態の出現を許して、失敗しその経験によって姿勢をただしましょうということでは、決して済まされない時期にはいっている。日本ではすでに十分ににがい経験をしているばかりか、二度とこんな失敗のできない時期にはいっている。もし労働者階級が日本および世界で決起すべき時に、方針や行動がまかりまちがって、戦争やファシズムを排除できないとするならばもう訂正がきかない。ちょうど『共産党宣言』の中に書かれているように「両階級が闘う場合、生産する階級が、支配する階級を打倒して一歩前進するか、それとも相闘う両階級の共倒れとなるかの時がある」と。――まさにこういう時期にはいっているといえる。労働者階級が全世界的な規模で労働者革命に成功して世界的危機を突破してゆくか、それとも失敗して、全世界でブルジョアジーとともに地上から消えてなくなるか、この世界史の運命をかけた二者択一の時代に追い込まれている。だから簡単に経験で学びましょうでは済まされない時期にはいっているといわねばならぬわけです。こういうことですから、現在の労働者階級がくり返し自分自身の偉大さを自覚し、その力を確信し、深刻な間違いを自分で拒否し、あらゆる間違った部分との結合を排除し、自立してゆくための学習ということは、とくに現在必要だろうと思います。
以上のことから第一項のところを終わりたいのですが、第一項の結びとして、先程あげた労働者党の「名誉」についてのマルクスの言葉のすぐ後に続いて、「労働者階級は革命的である。そうでなければ無価値である」と書いているのに注意したいのです。つまり労働者階級が単純に労働組合運動の「本来の目的」に自己満足しているとするならば、資本と賃金労働の制度が続いている限り賃金闘争は決して軽視できない不可欠な闘争ですが、しかしそれにとどまっているならば、この運動は何ら労働者階級としてすべての抑圧された人民にとって特別の意味を持つものではない。何故ならば、例えば労働者階級以下の生活をしている人はいくらでもいる。例えばヨーロッパないしアメリカの労働者以下の生活をしている人たちは後進国のほとんど全人民に近い層としてある。日本でも、労働者以下の生活をしている人たちは無数にいるし、例えば一千万人のボーダーライン層と呼ばれている人たちやあるいは農民は労働者以下の生活をいくらでもやっている。というのは、現在労働者に負わされている任務は単に労働者であるからということで満足することはとうていできない重さをもっている。「労働者階級は革命的である。そうでなければ無価値である」ということを忘れてはならんと思うのです。くり返し労働組合運動の内部において、現在の賃金労働と資本の制度全体から労働者階級を解放し、それによって搾取され抑圧されているあらゆる人民を解放していくこと、この闘いをしっかりとふくまなくてはいけない。マルクスの言葉でいうと「今後労働者は誇りを持たねばならない」、労働組合の活動家は「誇り」を持たねばならない、何故ならば彼らは偏狭な階級的利己心・エゴイズムではなくて、階級の解放のために(註 「ふみにじられた幾百万人の全般的解放にむかって」)闘うからであるといっている。このように階級の解放と同時に全人民を解放していくような、そういう活動にしていかないと労働者運動は特別の意味を持たんと思う。そしてこの解放闘争こそ労働者階級の、ほとんど唯一の、しかも、しっかりと現実の中に根をはった、“自由な活動”だと思います。 労働者は、職場の中での労働が資本、あるいは職制の指揮棒にただ盲目的に従わざるをえない活動であり、商品として売られた労働力であるということの苦悩をひしひしと感じざるを得ない。自分の意志からではなくて他人の意志の命令で動かなければならぬ、という不自由な活動を強制されているわけです。しかし解放闘争の中では労働者は“自由な人間”です。賃金労働という強制労働で労働者はほとんど全く“自己活動”すなわち自分の意志に基づく自由な活動を喪失しているわけですが、資本と賃金労働の制度そのものを転覆することによって虐げられた全人民を解放する革命運動、共産主義運動の中で、労働者は、失った「自己活動」、「自由な活動」、「自分の意志で行なう活動」を豊かにとりもどすことになる。資本のクビキの下にある全人民を解放しようと闘う労働者の、正当な「誇り」に満ちた生き生きとした顔と、ただの賃金奴隷に止まっている労働者の顔と、この対照を我々自身の問題としてかみしめてゆきたいと思います。 くり返しますが、労働者階級解放の活動・共産主義運動は、労働者の「自己活動」です。「自己活動」とは自分自身の意志に基づく活動です。労働者が階級的に自立するということは、労働者が自分の行なう活動を、他人の意志に強制されたものとして奴隷の活動としてではなくて、自分で自分の主人公として自分の意志で自分に命令して活動する階級になるということです。だから労働者は、労働運動の中で、自分の肉体を動かす実際の活動を行なうと同時に、その活動する労働者が、その活動を自分の意志で、自分の「方針」で展開する意識的な闘士でなければならんわけです。そうでなければ、どんなに闘っても資本家や組合・政党の幹部の奴隷になって全人民を解放する主人公になることは思いもよらぬことになります。マルクスが「共産主義は現状を廃棄する現実の運動」であると同時に、それを「概念的に把握する」、すなわち意識し、自覚する運動であるといい、エンゲルスが解放闘争に三つの闘争をあげて「経済闘争」「政治闘争」ともう一つ「思想闘争」をあげているのも、経済的あるいは政治的闘争を闘う同じ労働者が、この同じ労働者が、同時にその闘争を資本家や小市民の意識からではなく、ほかならぬ労働者階級自身の意識からして、自分自身の意識で闘う労働者に成長しなければならんということです。自分の闘いを自分の意志で自分の「方針」で闘う労働者になってはじめて「解放」の主体、主人公になるという意味に把握しなければならぬ。それは何もブルジョア的な個人主義におち込むことではなくて、働く階級の共同の運命を自覚し、その運動の条件・歩み・一般的な諸結果を洞察した主体的で共同的な人間になるということです。ここに労働者の学習の根本の意味があると思うのです。ついでながら、学習するということは何か自分以外の者から教えられるということで、何かやっぱり他の教える人たちの下に従属してしまうように思われるかも知れませんが、確かに学習の外観は他の人から教えられるという形をしていますが、その本当の中味は、自分自身の階級の共同の利害、運動の“自覚”です。つまり「学習とは想起である」といえます。すなわちただ外から与えられるものではなくて、自分自身の気づかないでいる偉大さを思い起こすことですから、奴隷になるどころか、しっかりと自立した人間になる意味に把握しなければならない。
(一九六四年五月/『著作集第一巻』所収)